全身の細胞が虚無感に満ちている。 ヒールの音が、夜の住宅街に高く響く。 どうにかこうにかマンションの入口に着くと、見覚えのある少女が突っ立っていた。 あの子、――桃じゃないの。 上司の命・・・・・今となっては単なるお節介に過ぎないけど、面倒を見ることになって半年。 建物自体が社員寮になっているこのマンションで、桃は一人暮らしをしている。 転勤でこの寮に越してくる時に、アタシは上司から桃のことを頼まれた。 おかしな話だったから、勿論問いただしたわ。 社員寮に女子高生が、しかも一人で? ・・・・あー、これはまた別の話。 とにかく。 アタシは桃の1階下の部屋に住み、時々夕飯を一緒に食べたり、話し相手になったり いわゆる『ご近所付き合い』をするようになった。 普段感情を表に出さない子だけど、今は様子がおかしい。 「どうしたの」 「・・・・・」 「これ、食べない?」 右手に持った箱を掲げて見せると、桃の目がじわじわと潤んでくるのが分かった。 「乱菊さあぁん・・・・」 「えっ、ちょっと、桃!」  Twinkle and twinkle  ―この手に 光を―  4 「―――すみませんでした」 泣き出した桃を、どうにかこうにかなだめて、部屋に連れてきたのが30分前。 適当に淹れた紅茶を飲ませると、大分落ち着いてきた。 「あの、何かお手伝いします・・・」 「いいからいいから」 座っているよう制止して、キッチンに向かう。 「それよりもさ、アンタどうしたの今日は」 「・・・・・・」 「言いたくないなら、それでいいわよ」 「・・・・すみません」 今の桃は、ボロボロでもないけど、ヨレヨレでもない。 何ていうか・・・そう、水分が足りない。 「今のアンタ、干物みたいよ」 「ひものー!?」 例えがオジサンっぽいと言われ、思わず苦笑した。 じゃあ、乾燥ワカメとか? 「・・・・それは干からびてる、ってことですか」 「違うわよ」 ケーキ皿とフォークを持って、桃の横に座る。 「乾燥ワカメは、見た目は干からびてしなしなだけど、水で戻せば元の状態に戻るでしょ」 「・・・・はぁ」 「だからね、今のアンタには、水分となる存在が必要なの」 「水分・・・」 「まぁ、それはおいといて」 切り分けたケーキを、皿に乗せて差し出す。 瞬間、桃がぎょっとした表情を浮かべた。 「これ、ホールの1/4じゃないですか!」 「あら、足りない?」 「違います!多すぎます!食べきれません!」 さっきまでの鬱屈した表情は何処へやら。 気を紛らわすには、十分すぎたかもしれない。 「だーってぇ、アンタとアタシで処分しないといけないのよコレ」 「だったらどうしてこんなに大きいサイズを買うんですか!」 「えー、どうしてって言われてもぉー」 すると、場の空気を寸断するかのように、機械音が響いた。 インターホンが、1回。――2回。 「お客さんですよ、・・・乱菊さん?」 壁の時計を見ると、8時半を回っている。 「桃、ちょっと見てきてよ」 「家主の乱菊さんが行くべきだと思いまーす」 「見るだけ、ね?変な奴だったら、アタシが追い払うから!」 こう見えてもアタシ、空手二段なのよー。 立つよう促すと、桃は渋々腰を上げた。 「――もう!」 駄目。期待して上手くいったことがあった? でも、玄関まで行くのが怖い。・・・・どうして? 「やっぱり、乱菊さんじゃないと駄目みたいです」 十秒もしない内に戻ってきた桃は、早口でまくし立てた。 「まさか、本当に変質者?!」 「・・・・どうでしょうか」 「じゃあ勧誘?」 危ないかも知れないから、アンタはトイレにでも隠れてて。 ドアの覗き窓から、外を窺うと――― ドクリ、と心臓が鳴るのが分かった。 汗ばむ手で、チェーンを外さないままドアを開ける。 「―――ギン」 相変わらずヘラヘラして。今更何よ。 行けなくなった、って。ハッキリ言ったのはアンタじゃないの。 「今日はご免な」 「もうパーティーはお開きとなりましたさようならぁー」 某読み、早口。 嫌なことを切り抜ける時の、子どもの頃からの癖だ。 「そんなこと言わんといて。そんなら、これから二次会や」 瓶らしき包みを見せる。ワインだろうか・・・ ああ、いけない。そんな物に惑わされるわけにはいかない。 「その手には乗りません一人でやってくださいさよう・・・・」 「何や、お客さんがいたんか」 ギンが首を傾けて、アタシの後ろを見て…まさか! 「・・・・こんばんは」 「桃っ!隠れて――」 「こんなカワイイ娘といつの間に仲良うなったん?」 「これは、だから・・・・」 「乱菊さん、ずっとアナタを待っていました」 「へぇ、やっぱりそうなん」 ニヤリと笑うギンに、益々腹が立った。 「・・・・・待ってません」 「嬉しいわぁ。仕事放って来た甲斐があったわ」 「アンタ!サボったの!?」 「冗談や。それよりこのワイン、三人で飲まへん?」 「桃は未成年!何勧めてんのよアンタは!」 「――乱菊さん。私、帰ります」 振り向くと、身支度を整えた桃が傍に立っていた。 「ちょっ、何言ってんの」 「だって乱菊さん、水分が足りないって」 「それはアンタの――」 「乱菊さんも同じです」 ドアに掛けていた手から、肩から、力が抜ける。 ――サラリと言ってくれるじゃないの、この子。 靴を履いた桃は、ギンと向かい合った。 「市丸ギンや。こんばんは」 「雛森桃です」 握手までしてる。何この雰囲気。 アンタ達、何やってるの。 「友好条約かな」 「そうやな」 ―――負けた。 「・・・とりあえず、寒いから中入ってよ」 寒いのは本当だけど。 さっさと上がったギンを見送ると、桃はアタシに向き直った。 「私は失礼します。お茶ご馳走様でした」 「ギンのことなら、遠慮することないのよ」 「いいんです」 平気そうな顔で、かぶりを振って。 アタシはこの儚い存在を、そっと抱きしめた。 この娘が背負っているものを考えると、涙が出そうになる。 「大丈夫。人生はプラスマイナスゼロよ」 「やっぱり理系ですね、乱菊さん」 「そうよ、アタシ理系だから」 「あー、ええなぁ、ボクも混ぜてー」 部屋の奥から間延びした声がする。もう、性懲りも無く。 「アンタは絶っ対に、ダメ!!」 ―――to the next story (2006/02/04)