戸を開けると、誰の気配も感じられなかった。 微かに聞こえる雨音が心地良い。 今日は土曜だから、他の部員が来ている可能性はまず無い。 誰もいなくて当然。だから此処へ来た。 誰かがいれば、雨の中わざわざ出向いた意味が無くなってしまう。 左手に持っていた裁縫道具を置き、手近な椅子に腰掛ける。 右手に持っていた鞄の中から、弁当と水筒を取り出す。 中身は鶏の唐揚げと里芋の煮付け、温かい緑茶。 休みの日でも律儀に弁当を持参する自分が、どこか滑稽に思える。 纏わり付く湿気も、生暖かい部屋の空気も別に嫌じゃない。 弁当を持ってくるのも、雨降りの日に外出するのも、苦にならないからそうするだけだ。 全ての喧騒を雨音がかき消してくれる。 今はそれが、途方もなく心地良かった。 Twinkle and twinkle ―この手に 光を― 9 「失礼しまーす!」 急に戸が開いたと思ったら・・・・驚いた。 井上さんじゃないか。 誰も来ないと踏んで此処に来たが、これでは本末転倒だ。 でもこの家庭科室は僕の所有物ではないから、そういった理屈は通らない。 今言えるのは、里芋を取り落とさなくてよかった、ということだけだ。 「あれ―――石田君?」 やっと気付いてくれた。 誰もいないと思って入ってきたのだろう。僕だってそうだった。 休日なのに登校している生徒がいるとは、普通は誰も思うまい。 「ごめんね、邪魔した?」 「邪魔じゃないよ。それより井上さん、休みなのにどうして?」 「それは石田君もだよ。どうしたの?」 そう言って笑う井上さんは、持っていた手下げ――何やら凄く大きい――を 作業台の上に乗せた。 乗せた衝撃で台が少し揺れる。一体何を、どのぐらい作るつもりなのだろう。 彼女の思考は時折、僕のそれを遥かに凌駕するすることがある。 「そろそろ手芸部の作品展でしょ?仕上げに入らないと間に合わないと思って」 「偶然だ、僕もそう思って来たんだ」 「そうなんだ?」 これは嘘ではない。 家よりも学校、此処で作業する方がはかどる気がするからだ。 「なんかね・・・・この部屋の雰囲気が良いんだ。サクサク進む感じがして」 「そうだね、僕もだよ」 「―――気が合うかもね、あたし達」 「・・・・そうかな」 「うん」 それ以上の言葉が見つからず、どうしていいのかも分からず 僕はただ黙って、弁当の残りを口に運ぶことだけに専念した。 井上さんも気を遣ってくれたのか、何も言わずに弁当を取り出した。 何だろう、この空気は。居心地が良いのには変わり無い。 しかし落ち着かない。 雨の所為だろうか。 どのぐらい時間が経っただろうか。 「―――石田君」 「何だい?」 ここでもやはり気を遣ったのか、井上さんは隣の台で作業をしていた。 手を止めて井上さんと、その向こうの壁に掛かっている時計を見る。 針は3時5分前を差している。集中すると時間の感覚が狂うな、どうも。 雨音だけが変わってない。 「変なこと、訊いてもいい?」 「・・・変なこと?」 「でも―――ごめん、やっぱりいいや!気にしないで!」 「あ、ああ」 表向き納得して、また作業に戻る。 でも、ああも言われると正直気になる。 それが自分にとって、良いことかそうでないかは別にしても、だ。 変なことかどうか、まずは訊いてみないことには分からない。 「井上さん」 「はっ、―――はい!」 「変かどうかは、僕が判断するから」 「あの、でも多分、デマだと思うから・・・」 「デマ?」 そこまで言うと、井上さんはまっすぐ僕を見た。 つられて僕も井上さんを見る。 「石田君と2組の雛森さん・・・・何かあるの?」 ―――雛森。 「例えば・・・付き合ってるとか―――なーんて!ごめんね、今のナシナシ!」 ―――雛森桃。 「あ、あのね、噂で少し聞いただけなの。ごめんね、やっぱり変なことだったでしょ?」 漂う線香の匂い。 病院の霊安室。父の姿。 祭壇の写真の中で笑う、黒髪の女性。そして、女性にそっくりな少女。 「そうだよね、石田君と雛森さんってクラスも違うし・・・ね、気にしないで!」 あの日の記憶が蘇る。断片的に、しかし鮮明に。 いいんだ、井上さん。僕に話してしまったことで、君が責任を感じる必要は無い。 噂になっているぐらいだ。 遅かれ早かれ、誰かが勘付くことは避けられなかったのかもしれない。 「・・・何かあるように見えるなら、それも仕方無いな」 「え、あの・・・デマじゃないの?」 「鋭い人もいるんだな、世の中には」 「それってやっぱり・・・・付き合って・・・」 僕と雛森をくっ付けて、果たして何が面白いのだろう。 恋愛関係の噂をたてられては、向こうも迷惑するだろうに。 いや、既に迷惑していた可能性もある。 今日まで噂に気付かなかったことを、僕は心の中で彼女に侘びた。 「付き合うとか、そういう関係では無い。けど、もっと別の関係だ」 別段隠していたわけではない。 公にする必要が無い―――ただそれだけの理由だった。 でも、僕のエゴが招いた結果がこれだ。 だから今日、井上さん、君に話そうと思う。 これ以上誤解してほしくないんだ。君にも、周りの人にも。 ―――最早自分でも、何を言ってるのか分からなくなってきた。 「僕と―――僕と雛森桃は、いとこだ」 ―――to the next story (2006/09/18)